『月と雲』
一 テンゾウ
何もせずに過ごす夜が、こんなにも長くて寂しいものだったなんて。今日も眠れないんだろうか。 一週間ほど前に、先輩が同じ暗部の男に言い寄られている所を見た。
僕の気配に気付いて離れたようだったけど、その時、あきらかにキスをしていた。
もちろん僕はその男を追い払ったけど、先輩は何もしていなかったと言い張る。
長い間口づけていた事を予想させる熱に染まった赤い唇で。
でも、そもそも話をしていただけならどうして口布を降ろす必要がある?
「だから、何度も言ってるでしょ。ただ話をしていただけだから」
「信用できません。先輩が認めるまで、絶対に口聞きませんからね」
そう言い放ってしまったばっかりに、会いに行けなくなってしまった。
でももう観念して、僕から会いに行こうか。
だって僕がそんな事を言ったせいで、先輩までツンとした態度で思い切り避けたりするし。それも、ひどく大げさに。
ちょっと言い過ぎたかもしれない。あの時僕は感情的になりすぎていた。
もしかしたら先輩が言ったように、本当は何もしてなかったのかもしれないし。
そう思いながらも、なかなか動く気になれなくてベッドの上で溜め息ばかりついていたら、玄関の扉が開く音がした。
そして、先輩らしき足音がして今僕のいる部屋の前まで来て止まる。
「先輩・・・?」
「・・・俺と口聞かないんでしょ?だからそこで聞いててよ。本当はキスしたの。あいつ、俺が好きでね。キスさせてくれたら諦めるって言うから」
じゃあなんで。あの時、隠した?
僕に後ろめたい気持ちがあったから?
キスさせてくれたら諦めるだなんて言う男を信じたのか?・・・先輩は馬鹿だ。
キスなんかしたら、余計に忘れられなくなるし、それ以上の事を求めたくなるのに。
「それに、そうしないとお前に何かするだなんて物騒な事言うもんだから。キスぐらいでコトが済むのならいいかなって思ったんだよね」
何かする?そんな理由でキスするなんてありえない。
僕はそんな訳の分からない事を言う先輩の顔を見て、ちゃんと話をしたくてベッドから降り部屋の扉を開けると、
悪い事をしたと思ってる様子を全く感じさせない、いつもの先輩がそこにいた。
「先輩は本当に・・・何を考えてるんですか?キスぐらいって何ですか。じゃあ先輩は、僕が誰かとキスしても平気ですか?」
「嫌だ。だってテンゾウは俺のものだもん。絶対に、イヤ!」
そう言って、先輩は腕組みして僕を睨みつけた。
その態度はどうかと思いつつも、子供みたいな言い方をする先輩が少しかわいく、いじらしく思えた。
だけど、僕にして欲しくないと言いつつ、この人は自分がする分には何とも思わないんだ。
「だったらもう、絶対にあんな事しないで。先輩。それに僕はあんな男に何かされる程弱くないです」
「わかってるよ。わかってるけど・・・あいつ、本当に何するかわからなかったんだもん。
でね。お前が来るの待ってたんだけど、来ないから来てやったの。俺に会いたかったでしょ?」
・・・そりゃ会いたかったに決まってる。でも、先輩がした事を簡単に許すつもりは無いから。
それを先輩に分かってもらいたいのに、どうして軽々しくこんな事を言うんだろう。
「で、俺の事抱きたいって思ってたんでしょ」
先輩が顎を上げて、僕を不敵な顔で見下ろした。
そして、その事実は全くの図星で僕は思わず顔を赤くしてしまった。
認めたくないのに、思い切りそうだという反応をしてしまい、やりきれなくて俯く。
「そんな事・・・思ってなかったですから」
苦し紛れにそう答えると、先輩が手を伸ばし、その指先で僕の短い髪に触れた。
僕の気持ちまでを弄ぶように、毛先をくるくるとその指に絡ませている。
「そう?残念。俺はテンゾウに抱かれたいってずっと思ってたんだけどねぇ」
この一週間、何だったんだろう。ずっと思い詰めていたのは僕だけだったのか。
僕をからかうように言う先輩に我慢ができなくなり、その手をぎゅっと掴んで引き離した。
「僕がどんな思いでいたか、先輩はわかってない・・・!」
先輩が他の人と親しげに話をしているだけで嫉妬するのに・・・。
だから、うやむやにしたくない。
もう二度とあんな事はしてほしくない。
僕はこんなに悲しい想いをしているのに、全然わかってくれない。
僕の決意に先輩の目が少し揺れた。
それを隠すように、俯いて目を閉じた。
「・・・ごめん」
「先輩。少し話をしましょう」
二
暖かいお茶をふたつ淹れて、ベッドの下に座り込んでいる先輩にひとつ渡し、その隣に腰を降ろした。
先輩と、こんな気まずい雰囲気になったのは初めてかもしれない。
言い合いすらした事もなかった。忙しいのを口実に、ちゃんと向き合って話をした事もない。
「先輩。聞きたい事が、沢山あるんです。答えたくなかったら答えなくていいです。
だから、先輩も僕に言いたい事があったら言って下さい」
「・・・うん」
「あの男とキスしたんですよね。どう感じたか覚えてますか?怒らないから、ちゃんと話して下さい」
「覚えてるよ」
歯切れの悪い返事。後ろめたさがあるんだろうか。
僕は言葉の続きを黙って待った。
「もっと気持ち悪いのかと・・・思った。でも、次第に誰とキスしてるのか分からなくなってきてお前の気配を感じるまで、夢中だった」
好きでもない奴とキスしたのに、夢中になっただなんて・・・ありえない。
先輩が、あの男とキスをしている所が頭に浮かぶと、胸のあたりがぎゅっと締め付けられた。
でも怒らないと言った手前、僕は我慢して次の質問をする。
「じゃあ。どうして、何もしてなかったって言ったんです?」
「だってお前、怒ってたでしょ。俺はどうって事なかったけど、そう言った方がいいのかなって思って」
「じゃあもうひとつ。僕とキスするのと、あの男とキスするのは、同じなんですか」
「・・・うん」
僕はその先輩の返事を聞いて、言葉を失った。
聞きたい事はまだ沢山あるけど、それももう、どうでもよく思えた。
・・・先輩は、僕のことを好きじゃなかったのか。だったら、これ以上何を聞いても一緒だ。
本当に僕の事が好きなのかと聞いてみたかったけど、先輩に聞いたとして、僕を好きだって言われたとしても。
それは僕が求めているのとは違う。僕が先輩を好きだという気持ちとは、まるで別のものだ。
お互い黙り込んだまま、時間が過ぎる。先輩は何を考えているんだろう。
「距離をおきましょう」
長い沈黙の間に僕が考えていた事は、別れるという事と同じ意味の距離を置いたほうがいいという事だった。
先輩を好きな気持ちは変わらないつもりでも、どうしても僕は先輩の事を理解できないし、何より気持ちも少し冷めてしまった。
僕とのキスが他の男とするのと同じだなんて悲しすぎる。
僕と付き合っていた理由が分からない。誰と付き合ったって、一緒なんじゃないのか?
「先輩は僕に何を求めてるんですか?僕に体を満たしてほしいだけですか?
僕はそんなふうに先輩といたくありません。・・・僕はそんな先輩は好きじゃない。
だから、もう付き合うのはやめましょう。先輩の事を抱きたいと思ってる奴なんて他に腐るほどいる。他の男を捜してください」
冷たい言い方かもしれないけど、先輩に振り回されるのだけはごめんだ。
今までの時間は何だったんだと思えば思うほど、その想いは強くなる。
先輩と過ごす時間は、僕にとっては特別だった。
先輩もそうだったから僕と一緒にいたんじゃなかったのか。
好きな気持ちがあるからこそ、キスは特別なものに思える筈なのに。
そして先輩は目を見開いて、僕をじっと見ている。僕が言った事を信じられないといった様子だった。
「な・・・に言ってるの。俺、テンゾウが好きだって言ってるでしょ」
「それは勘違いです」
「嫌だ。そんな、勝手に俺の気持ちをわかったように言うなよ」
「もう帰って、先輩」
「帰らない。一方的にそんな事言われて帰る訳ないでしょ」
「じゃあ僕が出て行きます」
三
先輩が何か言った所で、僕の気持ちは変わる事はなかった。
先輩の呼び止める声を聞きながら、衝動的に家を出た。
先輩からしたら一方的かもしれないけど、気持ちのズレなんて、話し合いで何とかなるもんじゃない。
家を出た後に気を紛らわせたくて向かった先は、たまに行く飲み屋だった。
静かな所にいたくなかった。酒でも飲んで、少しでも先輩の事を忘れたかった。
カウンターの隅で四杯目の酒を呷ったが、全く酔えない。最低な気分だけが増していくだけだった。
酔いたい時に限って、酔わせてくれない。旨いとも思わないけど、ただひたすらに酔って何もかも忘れたい気分だった。
そして五杯目をつごうとした時に後ろから手が伸びて来て、酒が入った瓶を取り上げる。
「飲みすぎですよ」
その声に顔を上げると、暗部の後輩の男だった。
人付き合いのあまりよくない僕にしては、割と仲はいいのかも知れない。とはいえこんな日に、知ってる奴には会いたくなかった。
「そんなに飲んでないし、全然酔ってない。今日は放っといてくれ」
誰とも話したくないんだ。なのにそいつは、僕の隣に座って勝手に飲み始めた。
「付き合いますよ」
そう言って、さっき取り上げた酒を空いた僕のグラスに注いだ。
「テンゾウ先輩のこんな所、初めて見ちゃいました」
「僕だって、やけになる事くらいあるよ」
さっきまで誰とも話したくないと思っていたはずなのに、こいつの柔らかい気配にどこかほっとした僕は、ゆっくりと先輩の事を話し始めた。
僕が話している間、ずっと黙っていたそいつは全部聞き終えてから溜め息をついた。
「・・・ひとつ聞いてもいいですか?」
「いいよ」
「本当に、付き合ってたんですか?」
「・・・え?」
僕と先輩が付き合うようになったのは、酔った勢いで抱き合った事がきっかけだったような気がする。
僕はずっと先輩のことが好きだったから、それだけで気持ちが通じ合ったと思った。
先輩も僕を好きだって言ってくれたし、実際、長い時間一緒にいた。でも、先輩はどうだったんだろう。
もう最初から、気持ちにすれ違いがあったのかも知れない。
「・・・いや。僕には先輩の気持ちはわからない」
だから、距離を置こうって言ったんだ。先輩に好きって言われたって、僕の心にはまるで届かなかった。
「これからどうするんです?」
「どうする・・とは?」
「家には帰れないでしょう。だったら、僕の所に来ますか?」
それはマズいだろう。
確かに家にいたら、いつ先輩が会いにくるか分からない。
とはいえこいつの家に居候なんて事が先輩に知られたら、絶対に勘違いされるに決まっている。
「ありがとう。でも、それはできないから遠慮しておくよ」
「そうですか」
そして気が付けば、酒の瓶がもう空になってしまっていた。
時間もすっかり明け方になろうとしている。家に帰ろうか・・・。
・・・いや、でもきっと先輩がまだいる。
「出ますか。店も、もう閉まりますし」
「そうだね」
重い腰を上げた途端、ぐらりと脳が揺れるような感覚がしてよろめいた。
酔っている感覚はないが、酒が体中に回っているのだろう。それすらも分からない。
「大丈夫ですか?」
そいつが僕の体を支えてくれた。僕よりも小さい体。
そっと腰に回された腕に安心感を覚えてその肩に腕を回す。先輩と、随分と位置が違う。
先輩なら肩を抱いてあげると、少し恥ずかしそうにしながらも僕に体を預けて、嬉しそうに笑ったりするんだ。
その事を思い出した後、途端に胸が苦しくなった。
僕はただ、先輩を束縛したいだけだったのか。いや、違う。僕は・・・先輩の心が欲しかっただけなんだ。
「少し酔ってるみたいだ」
「僕の部屋に来て下さい」
「・・・そうするよ」
四 カカシ
俺は、別にキスぐらいどうって事ないでしょって思ってたのに、あの時本気で怒っていたテンゾウを見て思わずキスなんかしてないって言ったんだ。
そしたら、あいつ、俺が認めるまで口聞かないだなんて言うもんだから、売り言葉に買い言葉で、好きにすれば?なんて言ってしまった。
そして、一週間。テンゾウは俺に会っても、本当に知らんぷりで、顔色ひとつ変えやしない。
それでも俺は、テンゾウが会いに来るのを当然のように信じて疑わなかった。
気に入らないと思った。
たかだかキスでしょ?何で俺がこんなにテンゾウの事を気にしないといけないんだ。
何をしててもあいつの事ばかり頭に浮かぶから、俺から会いに行こうと決めた。
どうせ俺に会いたいと思ってるはずだし、会ってしまえばすぐに前みたいに戻れるはず。
でも、そんな簡単な事じゃなかった。
テンゾウは傷付いた目で俺を非難して、そして、俺と距離を置くって言った。つまり、別れようと。
そんな事になるなんて思ってなかったから、本気だったテンゾウに戸惑い、俺は引き止める事が出来なかった。
テンゾウだって、俺と別れるだなんてそんな気は無かったのかもしれない。
でも多分、あの時の俺の態度と言葉がそうさせてしまったのは、間違いないようだった。
でも、他の奴とキスをする事を、俺は別に悪い事だと思ってない。
したい気分になったとして、どうして我慢しなきゃいけないんだろう。
気持ちいいと思う事が、どうしていけないんだろう?
付き合ってる人がいるから我慢しなくちゃいけないなんて、誰が決めたんだ。
そうは言いつつも、俺はテンゾウが他の男とキスをするのは許せない。
その感情は自分でもよく分からないけど、その事を考えただけでぎゅっと胸に突き刺すような痛みが走る。
他の男にはそんな感情は沸かないんだけど。
理不尽だって分かってる。
でも、テンゾウには俺の事だけ考えていてほしいんだ。
>
こんな俺でも、テンゾウの事は誰よりも好き。ただあいつといる時間が、一番好きだった。
テンゾウが出て行った部屋は寒々しくて、一緒に過ごした時間の記憶も、冬の寒空のような重い灰色の膜に覆われる。
視界までもが霞み、テンゾウは多分帰ってこないと思うと、途端に怖くなった。
この部屋で、何も喋らないで一日を過ごしたり、些細な事で笑いあったり、愛し合ったりした事。
明日からは何もなかったように、他人になって。
もうテンゾウとは一緒にいられないんだと思うと、今ここにいる事が耐えきれなくなって、静かに俺はテンゾウの部屋を出て行った。
せめて。テンゾウが帰ってきた時、いなくなった俺の事を思い出させる為に、ふたつ並んだままのコップはそのままに。
そして、俺を振った事を後悔したらいいんだ。
五 テンゾウ
どうやってそいつの家まで行ったか、よく覚えていない。
部屋に着いた後に酔いを覚ます薬草を煎じてくれて、苦いそれを飲むとみるみるうちにアルコールが抜けていった。
「悪かったね」
僕が顔をあげて、隣にいるそいつに礼を言おうとすると
さっとそいつの体が動いて、僕の首に腕を絡め取り、気付いた時には唇を重ねられていた。
「・・・っ」
突然の事に驚きつつも、なんとなくこうなる気はしていた。
回避しないのは、押しのけようとしないのは、先輩へのあてつけのつもりなのかは自分でもわからない。
ただ、先輩以外の人とキスするのってどんな感じなんだろうと。
僕も、先輩みたいにその気になったりするんだろうかとか、最低な事は考えていた。
でもこんなの、ただ唇と唇を会わせているだけだ。何も感じない。
先輩とのキスは、体中が甘く痺れるような感覚を覚えるのに。
愛おしいと思う気持ちが、苦しいほどに溢れ出すのに。
やっぱり僕は先輩が好きなんだと再確認させられた。
たとえ先輩の僕への気持ちが、僕が求めているものと違うとしても、それでも僕は先輩が好きだ。好きなんだ・・・。
「・・・抱いてくれませんか。あの人よりずっと、僕はテンゾウ先輩の事が好きです」
「・・・ごめん。それはできない」
もう充分だ。
僕が抱くのは先輩だけだから。先輩じゃなきゃ、そんな気も起こらない。
「・・・って、冗談ですよ」
彼はそう言って笑ったけど、顔が少しだけ引きつっている。
結局、部屋まで来てしまった僕の方に責任があるように思えて悪い事をしてしまったと思った。
「・・・ごめん。やっぱり、帰るよ」
「はい・・・」
後輩の部屋を出たものの、後味が悪い。
家には帰りたくないが、かといってこのまま外にいつづける訳にもいかないし、とりあえず一度家に帰ってみようかと思った。
もう朝だし、先輩も帰っているかもしれない。
六
出た時に開けっ放しだった家の鍵が閉まっていた。帰ったのか・・・。
溜め息を吐きながら鍵を開けて中に入ると、部屋の中は静まり返っていて、昨晩のやりとりがずっと前の出来事のように感じてしまうけど。
昨日先輩と話していた場所に、飲みかけのコップがふたつ残っているのを見て、確かに数時間前にあった事なんだと実感する。
僕は胸が詰まる思いでそれを片付けた。
好きだったのに、僕のほうから突き放してしまった。
先輩の心が欲しかっただけなのに。だけど、そんなのって傲慢なのかもしれない。
傍にいてくれるだけで良かったのかもしれないし、うわべだとしても、
好きだって言ってくれてたのだから距離なんて置かなくても良かったのかもしれない。
今となっては、僕の判断が正しかったのかどうかすら、わからない。
ただ、先輩とはもう今までみたいにいられないし、触れ合う事もこの先無いのかもしれないと思うと、ひたすら悲しくなった。
7 カカシ
一体俺はどうなってしまったんだろう。
一方的にこっぴどく振られたのに、惨めったらしく考えるのはテンゾウの事ばかりだった。
こんなにも他人に執着心を持った事なんて、今まで一度も無かった。
そんな俺に、話しかけてきた暗部の後輩の男。
確かテンゾウと仲がいい奴だった。
テンゾウと仲が良いというだけで、嫌悪感を抱いてしまう。
「・・・何?」
「先輩に言っておきたい事があるんです。テンゾウ先輩の事で」
「テンゾウが、何。・・・言っとくけど俺、あいつと何の関係もないよ」
もう、今は何の関係も、繋がりも無い。
そうやって言葉にする事でまた胸がチクリと痛んだ。
「じゃあ、怒らないで聞いて下さい。・・・僕は、あなたとの事でやけ酒を飲んで酔っぱらったテンゾウ先輩を部屋に誘って、キスしたんです」
>
「・・・今、何て言った?」
「テンゾウ先輩と、キスしました」
そう言って笑う男に、俺は殺意を覚えた。
テンゾウと、キスだって?それも、酔ったあいつに・・・。
頭に血が上った俺は、次の瞬間その男の首の付け根を掴み上げていた。
なんだってわざわざ、俺に言う必要がある。
「僕を・・・殺したいですか?テンゾウ先輩だって、そう思っていたはずだ・・・それなのにあなたは、更にあの人を傷つけるような事を・・・」
その言葉がずしりと胸に突き刺さった。
俺は、分かってたはずなんだ。テンゾウの気持ちも、俺のずるさも。
気付かないふりをしていたのかもしれない。頭が真っ白だ。
そして、どうしてあの時に気付けなかったんだろう。
自分の事ばかりで、テンゾウの気持ちなんて考えた事なんか無かった。
テンゾウがあの時、どんな気持ちでいたのかと思うと、吐き気がするほどに胸が苦しくなった。
呆然としたままの俺の手から逃れた男は、ケホケホと咳をした後、更に言葉を続ける。
「・・・でも、キスは僕が勝手にした事です。テンゾウ先輩を悪く思わないで下さい」
「・・・もういい。聞きたくない」俺はそう言って、逃げるようにその場を後にした。
それから何度か任務でテンゾウと顔を合わせることはあったけど、俺はテンゾウに会う事が苦痛で堪らなかった。
いろんな事が頭の中を渦巻いて、苦しんで、それを吐き出す術もなく日々を過ごして行く。
テンゾウへの想いは募るばかりだった。
酔っていたとはいえ、あんな男とキスしたテンゾウに苛つく感情と、
それと同じ事をしてテンゾウを苦しめた自分の行動への後悔。
そして何より、テンゾウと一緒にいられないという深い悲しみで滅茶苦茶の精神状態だった俺は、
里外任務の時に仲間に体を求められ、好きにさせようと思った。
少しでも気を紛らわせたかったんだ。
ぬるぬると俺の口内を這い回る舌が、気持ち悪い。
俺の体をくまなく撫で回すゴツゴツした手に苛々する。
・・・テンゾウじゃなきゃ嫌だ。
こんな事したって気が紛れる訳が無いのに、俺は何やってるんだろう。
ねぇ、テンゾウ。お前の代わりなんて見つかんない。見つかる訳ないでしょ・・・。
八 テンゾウ
そして忙しく時間は過ぎる。
たまに見かける先輩は僕に話しかける事もなく、目すらも合わせる事がなかった。
任務の報告書を提出しにやってきた僕は待機所で先輩を見つけ、面を付けている事をいいことにずっと視線で追い続けた。
今更後悔なんてしていない。
先輩も僕の事を忘れたんだろう。
それとも、僕の代わりになる男でも見つけたのかもしれない。落ち込んでいる様子など、全く感じさせなかった。
でも僕はどんな時でも、先輩を忘れる事なんてできなくて今はもう遠い存在になってしまった先輩を密かに想い続けている。
そんな自分がどこまでも情けなく思えた。
先輩が待機所を出て行った後、僕もひとり家に帰ろうと、外に出た所で先輩の気配を近くに感じた僕は、無意識に先輩を探してしまっていた。
「カカシ、俺と付き合えよ」
見つけたと思った途端、これか。
そういえば、あの時と同じような光景だと思った途端に目眩がする。
でも前とは違う。
今、僕は先輩の恋人でも何でも無い。だから、僕が出て行って追い払う事なんて出来る訳がない。
「嫌だね」
先輩が短く答えた。
こんな所を立ち聞きしてるのもよくないのかも知れないと思ったが、気になって仕方が無い僕は気配を消した。
でも先輩には気付かれてしまっているかも知れない。
「猫面の男と別れたんだろ?だったらいいだろ。なぁ」
「・・・次、またあいつの事口に出したら殺すよ?」
本気で仲間を殺すだなんて事を思っているんだろうか。
ここまで伝わって来る強い殺気に、冷や汗が吹き出す。
その男は後ずさりをして、先輩に何かを言ってから立ち去った。
僕も行かなくてはと思っていた矢先、先輩が僕のいる方へと振り向いて、言葉を放った。
「出てきたら?そこにいるの、わかってるんだから」
気付かれてるとは思っていたけど、まさか声をかけられるなんて思ってもなかったから。
観念した僕は、面を外して先輩の前に降り立った。
「今更、何?」
「・・・すいません」
先輩はいかにも機嫌の悪そうな顔をしている。
怒るのも仕方無い。
だって僕から距離を置こうって言ったのに、結局先輩の事を気にしていたのは僕のほうだった。
「・・・お前、人の事言えないでしょ」
「何の話ですか?」
「あてつけのつもりでしたのか知んないけど、最低だよお前」
もしかして、あいつとキスした事を言ってるんだろうか。
でもどうしてあの日の事を先輩が知ってるんだ。もしかしてあいつ、先輩に話したのか。
信じたくないけどそれしか考えられない。
でもした事は事実。後悔したって仕方無い。
「キスしたんでしょ?」
「聞いたんですか・・・。でもあれは、僕にとってはキスと呼べる行為ではなかった」
「した事には変わりないでしょうよ・・・」
呟くようにそう言った後、溜め息を吐いた。他に何か言いたげな表情をしているけど、その後言葉が続く事は無かった。
僕はてっきりここ最近の先輩の態度から、もう僕の事なんて忘れてしまったのかと思っていたから、先輩の様子に戸惑う。
この表情の意味は・・・?淡い期待を嫌でも持ってしまう。
最低だとは言われたけど、僕が他の男とキスした事を不愉快に思ってくれているのだから。
「でも先輩には、僕の気持ちなんて分からないんでしょう?」
「お前の気持ちなんか・・・わからないよ。でも、それ聞いて、俺は傷付いたの。
なんでかわかんないけど、どうしようも無い位に落ち込んだ。
一方的に振られて、その話聞かされて、お前の顔も見たくないって思ったのに。
なのに、ずっとお前の事ばっかり考えてた。それが辛くて忘れたくて他の男とキスしたら、駄目だった。
キスとかするのは・・・お前じゃなきゃ、嫌だって思ったの。一緒にいれるだけでいいからって、思った」
九
目の前にいる先輩は、今にも泣きだしてしまいそうな顔をしていた。
もうそれだけで、充分だった。言葉を言う必要も無く、外だというのもお構い無しに僕は先輩を強く抱きしめた。
抱きしめると、自分の中にあったいろんな不安や嫉妬なんかがゆっくりと剥がれ落ちて、ただひたすらに先輩を愛おしいと思う気持ちが強くなっていった。
冷静さを取り戻そうと思っても到底無理で、想いの分だけ腕に力を込める。いつのまにか背中に回されていた先輩の手を、もう離したくない。
「テンゾウの匂いがする」
そう言って、僕の耳の横で鼻をくんくんさせて、すぅっと大きく息を吸い込んだ。
自分の匂いを嗅がれるのは、なんだかくすぐったい。
そして先輩は、ゆっくりと息を吐き出した。
「先輩。僕も、先輩のことが忘れられなかった。好きなんです、どんな先輩も。全部」
まだ隣でくんくんやってる先輩の髪に顔を埋めて、こっそりとくちづけた。
抱きしめあってるのに、もっと触れたくて仕方がなかった。
「ふふ・・・。俺も、全部好き。振られてめちゃくちゃ落ち込んだけど、振られなかったら好きだって気付けなかった。
テンゾウの事、前よりずっと好き。・・・今までごめんね?」
先輩は僕の腕の中で体を少しだけ起こし、僕の顔を覗き込んで唇を重ねた。
重ねられた唇を舌で割り開いて、そうするのが当たり前の事のように僕と先輩はそこで長い間
それこそ唇が腫れてしまうんじゃないかと思うほどキスをしてから、笑い合った。
沢山伝えたいことや知りたいこともあるけど、今は言葉よりも笑っていたいんだ。先輩の隣で。
柔らかな春の風が僕達の鼻先をくすぐり、ふわりと抜けていった。
2008/3/16
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