in the flight





くまさんのきもち 2








 翌日、念のためにチラシを片手に例のヤマト接骨院に向かった。
 町屋が建ち並ぶこの地域は風情があり、まるでタイムスリップしたみたいに時間がゆっくりと流れている気がする。 距離的に地図は必要ない程に家からは近かったのだけど、多分このチラシが無ければ気づかなかったかもしれない。
 軒下に吊された小さな看板の他には目印になるようなものは無く、そもそもこの看板を見ただけでは入ってみようなんて思わないだろう。 だってその看板って、チラシと同じようにヤマト接骨院という文字と猫のイラストが描かれているだけなのだから。

 営業日も時間も書かれていないチラシと看板を交互に見て、訳が分からなくなり溜め息を吐く。どう考えても一見さんお断りな店構え。だけどこの投函されたチラシはどういう事なのか。 チラシを投函するという事は患者さんに来て欲しいと思っているだろうに。
 きっと店主は相当の捻くれ者かバカなのか、それともただの天然か。
 なんとなく関わると厄介な事になるような気がするから諦めて他を探してみるかと立ち去ろうとした時に、ガラガラと扉が開いて人が出てきたから突然の事に驚いた。
「何かご用ですか?」
 そう言って首を傾げた男は俺と同じぐらいの長身で、くりっとした大きな目で物珍しそうな表情をしている。 作務衣に下駄という格好がとても似合っていて、この町並みにも自然に溶け込んでいた。
 もしかしてこの男が店主なのだろうか。
「うちにチラシが入ってたので来てみたんです」
 そう言ってチラシを見せると、あっと目を更に丸くしてニッコリと微笑んだ。その笑顔に不覚にもときめいてしまった。こんな毒気のない表情をする人に会うのが単に久しぶりなだけかもしれないけれど、悪い人では無さそうだ。
「良ければ中へどうぞ」
「え・・・・・・」
 だけど店主らしき男はそう言って俺の返事を聞く前に、さっさと中に入って行ってしまった。
 開いているようなら診てもらうつもりだったとはいえ少々強引な気もする。あの笑顔に騙されないようにしなければと気を引き締めて続いて中に入った。

 店内はきれいに改装したばかりなのか、ほのかに木の匂いが漂っている。
 所々に観葉植物が置かれ、内装も接骨院というよりは今流行りのリラクゼーションサロンのようなモダンな造りだ。だけど自然でとても落ち着く雰囲気だと思った。
 診察室に通され木製のチェアに座らされると、少し待っていて下さいと店主が席を外した。
 全部一人でやっているようには見えないから今は休憩時間かな。 よく考えたら大抵の接骨院の診察時間は朝と夕方だけだ。 もしかしたら開いている時間には看板を出しているのかもしれないけれど、どうして案内を出さないのだろう。

「お待たせしました」
 そう言いながら戻ってきた店主は人懐っこそうな笑顔を見せて冷茶を出してくれた。グラスの中で氷がカラカラと音を立てている。
「ありがとうございます」
 今日はとても暑くて喉が渇いていたから遠慮なく戴く事にした。
「ん、美味しい」
 思わずそう言ってしまう程に出されたお茶が美味しかった。普通のお茶ではなくジャスミン茶だったのだけど驚くほど香りがよく、それでいて渋味がほとんど無くて飲みやすい。
「お茶淹れるの好きなんです。これは自分用に水出しで用意していたものなんですよ」
「水出しですか。だから苦くないんだ」
 ジャスミン茶って爽やかだけど、俺が淹れるとどうしても苦みや渋みが出てしまう。
「今度是非やってみて下さい、簡単なので」
「えぇ。やってみます」
 そう答えて微笑むと嬉しそうにニッコリと笑って、手元にあった用紙とペンを俺に差し出した。
「ではこちらの問診票に記入をお願いします」
「あ、でも今は休憩時間じゃないんですか?後でまた来ますけれど」
「構いません。それに今日は休診日ですし、見た限り結構凝ってらっしゃる」
 店主はさらりと言って傍らにあった丸椅子に腰を降ろした。
 見ただけで分かるものなんだろうかと思ったけれど、今時肩凝りで悩んでいない人の方が珍しい。時間外に看てくれるとせっかく言ってくれているのだから厚意に甘える事にしようと、差し出された問診票に記入していく。
「これだけで良いんですか?」
 思わずそう聞いてしまうほど簡素な内容だった。名前、住所、生年月日などの個人情報だけで、どこが悪いのかを記入する欄が無いのだ。
「はい。あとは施術しながらお聞きしていきますね。体に直接お触れするのに、わざわざ伺うのも変でしょう。でも希望があれば遠慮なく仰って下さい」
「わかりました。お任せします」
 見る限り俺より若そうなのに話していて安心感があるし、責任を持って仕事をやっているのが伝わってきたから任せてみたくなった。今まで色んな所に行ってみたけど、自分に合うと思った所は見つからなかったし、先生と話していて、こんな風に感じた事だって一度も無かった。
「ではベッドにうつ伏せになって下さい」
 促されるままベッドにうつ伏せになると、ふわりと薄いタオルが掛けられて照明が少しだけ落とされた。
「まずは最初なので体の状態を診させて頂きたいのですが、お時間は大丈夫ですか?」
「はい、特に何もないので大丈夫ですよ」
「わかりました。痛かったりしたら教えて下さい」
 低く落ち着いた声に小さく頷くと、言っていた通り体の隅々まで診るつもりなのだろうか。足の先に手が添えられ、ほぐすように探るように優しく触れていく。
 驚いたのが服を着ていて更にタオルが掛けられているのに、その手がとても温かいのだ。強く揉んだりしている訳でもなく、むしろ摩るぐらいの強さ加減なのに。触れた所からぽかぽかと温かくなって心地が良い。
「手、すごくあったかいですね」
「暑くないですか?」
「いや・・・・・・そういうんじゃなくて、凄く気持ち良い」
 まるで温泉にでも浸かっているかのように、体の芯から温もっていくのを感じる。手の指先まで触れる頃には、うつらうつらと眠たくなってしまう程だった。
「じゃ、凝っている所を解していきますね」
 寝てしまいそうになっている俺に気遣ってか、その小さな優しい声すらも心地良い。
「もし寝てしまったら起こしてください」
「わかりました」
 実はどんなに疲れていたとしてもマッサージ中に寝てしまった事が今まで一度も無いのだけど、なんだかこのまま寝てしまいそうな気がしてしまって。昨日、暑い中で草むしりなんて慣れない事したせいかもしれないけど、俺は相当気を許した人の前以外で寝れない性格なのだ。初対面の相手の前なんてもっての他だったのに。
 解していくと言ってもぐいぐい強く揉むのではなく、体の筋や筋肉に沿って丁度良い加減で揉んでくれている。今までマッサージしてもらった時はもう少し強くしてくれたらいいのに、とか色々と思う事があるのに物足りなさを感じる事もない。
「ん・・・・・・」
 思わず溜め息が漏れる程に気持ちがいい。
 最初は怪しいとか思ってしまったけれど、良い先生に巡り会えて良かった。もう他の人じゃ駄目な気がする。そんな事をなんとなく思い、ふわふわとした心地のまま意識を手放した。







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